2010年2月25日木曜日

がんばれ!チェコ

以前今年うちのオケで演奏する曲の解説を任されたという話をしました.チェコの作曲家ドヴォルザークの交響曲2曲です.そのためにチェコやその首都プラハのことなどを調べていますが,チェコってフィンランド以上に過酷な抑圧された過去をもっているんですね.ドヴォルザークが愛した故郷はこんな国なんだって知りました.ビールの消費量が世界一,ってことくらいしかチェコの国としては知りませんでした.プラハについては,ウィーンでは冷たくあしらわれたモーツァルトの後期のオペラを熱狂ととともに迎え,交響曲38番が初演された街として,モーツァルティアンの私は好意を感じていました.まあそんなチェコの歴史に共感して曲解説を書いてみましたので,ファイルを消してしまった場合のバックアップとしてここに転載します.読まれた方(とても少ないですが),ぜひご意見を!

プラハの春.チェコ共和国の首都であり,かつて神聖ローマ帝国の首都だったプラハ.そのシンボルであるプラハ城が,滔々と流れるヴルタヴァ(独名モルダウ)河を見下ろしています.イギリスの神学者の思想を受けて宗教改革に身を投じたヤン・フスが学長を務めた中央ヨーロッパ最古のカレル大学,ティコ・ブラーエが地動説につながる天体観測を行った天文塔,アルフォンス・ミュシャがデザインしたステンドグラスのある聖ヴィート大聖堂など,プラハは学問と芸術の中心地でした.赤茶けたスレート瓦と多数の尖塔が目を引く古都プラハ,そこに訪れる春の雅さと華やかさはいかほどでしょう.

プラハの春,しかしそれは1968年に起こったロシアの侵略です.自由を求めるプラハ市民をロシア軍が制圧したのです.ドイツ,オーストリア,ハンガリーなどの帝国・強国に囲まれたチェコは,古来より代わる代わる彼らに支配されてきました.ドヴォルザーク(1841-1904)は,オーストリア=ハンガリー二重帝国の時代に,プラハ近郊の村で生まれました.民族独立の動きが再び始まりつつあったこの当時,チェコは同じスラブ民族であるロシアとの距離を縮めつつありました.

ドヴォルザークはオーストリア政府から奨学金をもらいつつ作曲に励み,ウィーンで活躍していたブラームス(1833-1897)に才能を見出され,イギリスで認められて国際的作曲家となりました.交響曲第7番ニ短調op.70はロンドン・フィルハーモニック協会の依頼により1885年に作曲されました.この曲は直前に作曲された劇的序曲『フス教徒』の主題を用いています.フス教徒とはヤン・フスの思想を受け継ぐ人たちです.ヤン・フスはカトリック教会に対するプロテスタント(抗議者)として火あぶりにされ,その後継者たちも弾圧されました.序曲に続き,ヤン・フスたちの信念を貫くドラマの本編がこの第7番であり,ヤン・フスの目を開かせたイギリスへの敬意が込められているのでしょう.

1892年秋,ドヴォルザークは家族とともにアメリカに渡ります.イギリスから独立して100年,世界から一目置かれるまでに成長したアメリカで,アメリカ独自の音楽の興隆を託されました.チェコを愛するドヴォルザークがなぜこの仕事を引き受けたのか?チェコと同じく独立に苦渋し,必死で独立を勝ち取った国アメリカを見たかったのだと思います.そして渡米後まもなく作曲した交響曲第9番ホ短調op.95「新世界より」で,アメリカの雄大な自然に満ちあふれる力強い生命の息吹やそこでの素朴で静けさと安らぎに満ちた人々の生活,あるいは都市の喧噪や巨大なビル群,大地を揺るがす大陸横断鉄道の力強いリズムなど,新世界アメリカの今を,祖国への希望のメッセージとして故郷に伝えたかったのではないでしょうか.

さて,ドヴォルザークが夢見た二重帝国からの祖国の開放は,第一次世界大戦終結後の1918年.しかしそれも束の間,ナチスに侵略されてしまいます.第二次世界大戦でナチスを追い払ってくれたのは同じスラブ民族として距離を近づけつつあったロシア.そのロシアは共産主義を強制します.そしてプラハの春.チェコが真の独立を勝ち得たのは1993年,1989年のベルリンの壁の崩壊に伴うチェコとスロバキアの分離・独立によってでした.苦渋する祖国チェコへの希望を託した二曲の交響曲は,私たち西オケにも練習という苦渋を一年間に渡って与えてきましたが,その成果が今夜開放されます.でもチェコのように(演奏が)分離・(聴衆から)独立はいたしません!


というような感じです.ちょっと長いですねぇ.これから推敲していきたいと思います.

2010年2月15日月曜日

バレンタインに負けた!

バレンタインに負けた,と言っても,誰からもチョコをもらえなかったとか,そういうことじゃありません.昨日のバレンタインの日の開催されたバドミントン大会で負けたのです.30代以上ABランクというところで,同じ部の同僚とダブルスで出ました.お互い30代といっても崖っぷち.しかもこのクラスはかなりの強豪ぞろいとの噂.でも結構,いい線いったんですけどね.4試合中,最初の3試合はいずれのセットも接戦だったのですが,あと一点が取れなくて負けてしまいました.最後の試合はまったく箸にも棒にもかかりませんでした.レベルが違う!!いやあこんな人たちと良い試合をしてみたいものです.その前に,互角程度の相手にちゃんと勝てなきゃいけませんが.
まあ負けはしましたが,割と良い試合が出来たので気分良く,予定よりも相当早く帰宅すると,娘とかみさんがチョコレートを作ってました.娘の作品はハート形で色とりどりの砂糖粒をまぶしたものでした.かみさんは今年はマカロンとチョコレートケーキに挑戦.もう7,8年も前にフランスに出張した際,ラファイエットというデパートで見かけた色とりどりのマカロン.軽薄そうな概観の割にもの凄く高いのにびっくりしました.その後,日本でも話題になり,再度フランス出張に行った際に思い切って買ってきたのが5年ほど前.中にチョコレートがぎっしり詰まっていて,見た目以上に重く,そして美味しい!かみさんと娘はそれ以来マカロンのファンに.そしてお手軽レシピをネットで見つけたので今年は自作してみたとのこと.数日前から苦戦していたようで,本番はなかなかの出来でした.チョコレートケーキの方は,甘いのが苦手な私を考慮して,糖分控えめの大人の味でした.そして今宵もまたいささか飲み過ぎちゃいました...反省.

2010年2月12日金曜日

禍福は糾える縄の如し

フィンランドから無事に帰国しました。といってもまだ関空ですが。昨夜といっても時差が7時間あるので、ヘルシンキ発17時10分のフィンエアーに乗りました。なんとラッキーなことに、他のお客さんの都合でビジネスクラスに無料アップグレード!!フィンエアーのビジネスクラスのワインは世界一の品揃えと聞くので期待は特大。しかもフルフラットベッドなので熟睡できること間違いなし。二日前のタンペレのホテルでの湯冷めならぬサウナ冷めのせいでちょっと風邪気味なので、これはホントありがたい!!
ビジネスクラスなので優先搭乗でいち早く機内へ。席に着くなりCAがコートを預かってくれ、シャンパンをもってきてくれる。ひろーい座席で優雅にシャンパンを飲みながら映画のプログラムを確認するとなんとムーミンが!これは優雅な食事とともに見なければ。そんなこんなでだいぶ時間が経つが一向に出発しない。アナウンスによれば機材の整備と荷物の搬入が遅れているとか。出発時刻を40分も過ぎた頃、私の乗っている席(前から4列目の右窓側)から前方の機内へ荷物を搬入しているのが見える。そして45分遅れで出発。たった5分で荷物の搬入が終わったの?と驚きと疑問を感じつつ、頭は豪華な機内食へ。
飛び立ってしばらくするとメニューとワインリストが配られた。ワインリストの方が厚い!シャンパンに始まり、白ワイン2種(仏とNZ)、赤二種(仏と伊)、そしてデザートワイン(モーツァルトの生まれ故郷が産地)のそれぞれについての解説が7カ国語で掲載されている。とりあえずアペリティフとしてもう一杯シャンパンを頼み、和風の前菜(茶そばや寿司など)とともに仏産白、メインの牛ヒレステーキと仏産赤、デザートにフィンランド産チーズ盛り合わせを頼みつつオーストリア産デザートワインを。まさにフルコースを堪能し、すっかり出来上がったところで、ムーミンを見るのを忘れた!
とりあえず食後の歯磨きをすませ、いざムーミンを。チェコスロバキアで作られた、トーベ監修によるパペット劇。物語は『ムーミン谷の夏祭り』。しっかりと原作に忠実に作られている。ムーミントロールとスノークのお嬢さん、そしてフィリフヨンカがヘムル警察官に逮捕されたあたりで睡魔が襲う。。。このパペット劇はなぜか観ると眠くなる。鼻と目にマスクをつけて眠りに着く。
3度目に目が覚めたときは日本時間の8時過ぎ。あと1時間半ほどで着く予定だったが、出発が遅れたので到着予定は10時20分頃とのこと。札幌行きは10時55分発。大丈夫か?と思いつつ、昨日のムーミンの続きを観る。おれが一人焦ってもどうにもならん。遅れたら、まあ次の便に乗ればいいだけのこと。そして朝食が出され(焼鮭と卵焼き、梅干し付きおかゆ、果物)、眼下はもう日本。瀬戸内海を抜け、香川あたりから和歌山の沖合を北上しつつ関空へ到着。着陸したのは10時10分頃。なんとか乗り継ぎに間に合うか。しかし到着ゲートまでが長い。広い関空を散々走り回り到着ゲートに着いたのは10時20分。飛行機を降りると自分の名前を呼ぶお姉さんの声が。
JALのお姉さんに自分であることを告げると、予定の便に乗り継ぐためには10時40分までにチェックインする必要があるとのこと。もしくは諦めて15時45分の次の便にするかどうするか。間に合うのなら55分の便に乗ります!と言うと、じゃあ走ります!といってお姉さんが走り出す。寝不足と飲み過ぎで足下が覚束ないものの、そこは日頃鍛えている自負もあり、必死で追いかける。入国検査も特別ルートで検査してもらい、10時半には荷物のコンベアのところに到着。お姉さんが事前に私の荷物を先に出すよう指示してある。
ところが!荷物が一向に来ない。おそらくは荷物をコンベアに載せているであろう現場まで、そうあの黒いビラビラのカテーンの後ろまで、お姉さんが確認して行ってくれたが、今のところ荷物はないとのこと。コンベアの前で待つこと10分。お姉さんが間に合わないことを告げに来る。まあしょうがないよね、お姉さんのせいじゃないし。でもこんなに遅くまで出でこないなんて。一抹の不安を感じつつ、次こそがあのビロビロから自分のスーツケースが出て来ることを祈りつつ見守るが、次第に荷物は疎らに。私の横に群がっていた10数名のおっちゃんおばちゃんに、赤ら顔のおっちゃんがなにやら説明してる。このおっちゃん、添乗員やったんか。おれの前の席で熟睡しとったぞ。なになに荷物が届いてない?え?もしかしておれも?いやいや、おれはタンペレから乗り継いできたから、この人らとはちょっと違うで。
なんと思ってると、お姉さんが申し訳なさそうな顔をして近づいて来る。ガーン!そして荷物配送の手続きカウンターへ。スーツケースの中身を訊かれ、お酒は水もんやから別便で送ります、せやかてスーツケース開けさせてもらいまっさ。鍵があったらおよこしやす。という感じで、まあ数日後には届くとのこと。まあ急ぐようなもんは入ってへんし、自分で運ばんですむからラッキーかも、なんて思いつつ、今度は国内線のチェックインカウンターへお姉さんと向かう。お姉さんによれば、フィンエアーはこのところこういうことが多いとのこと。今年はじめに荷物運送会社の社員らによる大きなストライキがあり、飛行機は満員なのに、一緒に来た荷物は20個程度だったこともあるとか。そういえばフィンエアーの機内誌に、3月から最新式の荷物運送システムが導入され、1秒間に2個の荷物が自動仕分けされるとか。あー、そんなシステムが導入されれば、人員削減されるわな。で、ストなんだ。てな話を、もう急ぐ必要のなくなったお姉さんとしていると、でもうらやましいです、ストがちゃんとできるなんて。日本だとやっぱりストはしずらいですから。ほんまやったらわてもしたいどす!とお姉さん。たしかにJALもいろいろありそうだよね。がんばれ!お姉さん。
そしてチェックインカウンターでお姉さんとおさらばし、今ラウンジでビールを飲みながらこれを書いているわけです。なんせ暇なもんで。しかし後2時間、どうしよう。昼寝しちゃうと時差ぼけになりそうだし。明後日はバドミントンの試合だから時差ぼけになるわけにはいかん!明日はオケの練習もあるし。よしビール飲みながらがんばろう!

2010年2月11日木曜日

ムーミン博物館

ついにやってきました!ムーミン博物館。フィンランドの首都ヘルシンキから北へ200km弱のタンペレという街にあります。人口では3番目に大きな都市です。ムーミン博物館には、作者トーベ・ヤンソンが親友トゥーリッキ・ピエトラたちと一緒に作ったムーミンハウスが展示されています。その他、トーベの挿絵の原画やトゥーリッキが作った物語の場面の3D模型が展示されています。
まずは原画の方ですが、恐ろしく緻密です。細い線の密度の違いだけで光と陰を表現しています。まさに職人技。そしてキャラクターたちを描く輪郭線の迷いのなさ。まったくブレがありません。でもこのブレのなさを生み出すために、何度もデッサンしていたことが分かります。トーベはこの物語を、そしてムーミンたち一人一人を、さらにはおそらくはフィンランドのものであろう景色や自然を、愛していたことがよく分かります。
そしてトゥーリッキの模型からも、トゥーリッキもトーベと同じくらい、ムーミンたちを愛していたことがひしひしと伝わってきます。人形たちの表情も、まさにその場面を彷彿とさせるほど。今にも動き出しておしゃべりしそうなほど、生き生きとした模型です。こちらも緻密な作品ですが、トゥーリッキが楽しみながら作成したであろうことが伝わってきます。
これらの膨大な展示の一角に「ダンス」をテーマにしたコーナーがありました。ムーミン物語の中で描かれているたくさんのダンスの場面を集めたものです。トーベ自身がダンスが好きであったためだと書かれていました。たしかにトーベの挿絵には動きがあります。しかしその一方でそれとは対照的な「静」もあると思います。スナフキンがハイ虫との会話できまずくなった場面、漁師が自分は灯台守であることを思い出し、ムーミン一家との間に流れる重苦しい空気などです。
さて、この博物館ですが、展示だけではありません。いたるところに子どもたちがムーミンたちの世界に入って行けるような仕掛けがあります。私が行った時にも20名くらいの幼稚園児たちが、ミイに扮したお姉さんの話に喜々としていました。子どもたちが楽しむためのストーリーがこの博物館にはあります。
今日はフィンランド最終日。今日もまたムーミン博物館に行ってきます!

2010年2月2日火曜日

馬の尻尾

コントラバスの弓の毛を張り替えました.弓とは,弦楽器の弦を擦って音を出すための道具です.コントラバスの場合,ジャズでは指で直接弦をはじくピッチカートが一般的ですが,クラッシック音楽では弓が欠かせません.私の弓はカーボン製のものと木製のものの二本.後者はかみさんが学生時代に使っていたもので,ヘルナンブコというブラジル原産の豆科の植物の茎が材料なので,正確には「木」ではなく「蔓」です.しかし,このヘルナンブコはまさに見た目は木です.こうしたヘルナンブコやカーボンの棒(弓は英語で"Bow")の両端で束ねた毛を張ってあるのが弦楽器の弓です.ネジがついていて毛の張りの強さを調節します.この毛は馬の尻尾で,この毛に松ヤニを塗り,弦にひっかかりやすくして弾きます.この毛は一年に一度くらい張り替えないと劣化して音が出なくなったり,抜けやすくなったりします.この毛には大きく「白」「黒」の二色があります.「茶」というのもあるようですが,ほとんど見ません.私のカーボン製の弓は柄が黒なので黒い毛を,ヘルナンブコ製のものは柄が茶褐色なので白い毛をはってます.黒い毛や茶色い毛は黒馬や茶馬の毛をそのまま使っています.では白い毛はというと,白馬の毛ではなく,黒や茶の毛を脱色しています.この脱色によって毛の表面がならされるため,白い毛の方が繊細な音が出ます.
さて前置きが長くなりましたが,同じオケのセカンドヴァイオリンにヴァイオリン工房を営んでいる方がいるので,その方に弓の張り替えをお願いしました.カーボンの方は買って以来およそ3年振り,かみさんのは大学時代以来の約15年振りの張り替えです.カーボンの方が戻ってきて,代わりにかみさんのを張り替えてもらっている最中です.戻ってきた弓の毛はふさふさのつやつや.それを見ただけでいい音が出そうな気がしてうきうき.と思いたいのですが,コントラバスの場合,弓を張り替えてすぐには音が出ません.松ヤニを塗ってもすぐにスカーっと上滑りしてしまいます.だからあまり張り替えたくないのです.ここ数日は松ヤニを塗ってはスカーっの繰り返し.こんなアホな楽器やめてやるっ!
一方,ヴァイオリンを習い始めたかみさんは私が大学時代に購入したヴァイオリンを使っています.こちらも購入以来一度も弓の毛を替えていませんでした.ヴァイオリンの先生に薦められた工房に持って行くと,弓の張り替えとともに楽器の調整もしてくれたそうで,確かに以前よりも格段に良い音が出ます.くーっ,またヴァイオリンに転向しようかな,と思った時,ふと思いました.もしかしてヴァイオリンの松ヤニを塗ってみたらいいんちゃう?さっそく塗って弾いてみると,なんと見事に太い音が出ました.馬の尻尾にも松ヤニとの相性があるのだとシリました.そういえば学生時代のオケの顧問がこんなことを言ってました.この方はプロオケのコントラバス奏者だったのですが,コントラバス用の松ヤニを塗った上から薄くチェロ用の松ヤニを塗ると良い音が出るんだよ,と.音楽同様,楽器もなかなか奥が深いものです.