2009年5月19日火曜日

閉じたがる脳

近年、意識に関する研究が盛んです。認知科学や神経科学、脳科学、心理学など様々な分野で研究が進んでいます。しかし、「意識」というものが本当にあるのでしょうか?私は、「意識」とは人間の幻想にすぎないのではないかと思っています。
では、外界を認知したり、心の動きを認識したり、思考したり、行動したり、といったことは、私たち人間の何が司っているのか?それは、私たちの脳が閉ざそうとする、すなわち一つのまとまり(ゲシュタルト)を認識しようとする生理学的な傾向と、神経科学的な記憶との所産だと私は考えています。
私たちは日常生活の中で絶えず外界の様々なモノと接しています。そうした様々なモノは、見方によってそれぞれが膨大な情報をもっています。しかし、そうした膨大な情報を私たち人間はいっぺんに認識することはできません。私たちが置かれている、その時、その場における私たちの内面の状態に適した情報だけを認識します。そのモノを認識するには記憶が必要であり、私たちの内面の状態に適した情報だけを認識することを、「閉じる」と私は呼んでいます。
この「閉じ方」、すなわち外界の認識の仕方にはいくつかのパターンがあるように思います。人の性格と言ってもよいようなパターンです。たとえば、自らの経験で閉じようとする人、規則や原則で閉じようとする人、論理で閉じようとする人、快・不快といった感情で閉じようとする人、などです。こうした閉じ方のパターンは、ある人はあるパターンしかもっていないということではなく、すべてもっているのですが、人によってどのパターンが強く出るかが異なるように思います。
そして「閉じている状態」は、ゲシュタルト心理学におけるプレグナンツをもっています。たとえば、私たちが道を歩いている時に、他者が自分の前を横切ると不快に感じると思います。なぜ私たちが不快に感じるのかというと、私たちは歩くことの目的地と今の自分との間に「よい曲線」を認識しており、その「よい曲線」を他者が横切るために、「よい曲線」が断ち切られるからだと解釈できます。このような目的と自分の今の状態との間の「よい曲線」は、私たちの置かれている外界と私たちの内面との閉じた関係を築いています。また、自分と趣味が「類似」していると、その相手との閉じた関係、すなわち好意や好感が生まれます。そしてその閉じた関係に基づき相手を認識しようとします。つまり、相手も自分と同じ考え、好みをもっているという「思いこみ」を押し付けがちです。そして自分とは異なる面が見えても見ないふりをしたり、突然、好意が憎しみに変わることもあります。
このように、人間にとっては「閉じた状態」が好ましいのです。親しい人の死が悲しいのは、それまでその人と築いてきた「閉じた状態」が開いてしまうからです。このような「閉じた状態」が開いた時にそれを「閉じよう」とする生理学的な反応を「意識」と呼んでいるのではないかと思うのです。

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