「分類」に関する認知科学的な研究では、Basic Levelというものがあると指摘されています。例えば「犬」「猫」「ブタ」「木」などとたレベルの分類です。このレベルの分類は、幼児が真っ先に学習するレベルであり、表す言葉も短く、もっと頻繁に使われ、このレベルを基準にして様々なレベルの分類が生まれるとされます。
もっとも頻繁に使われる分類であるために、幼児が真っ先に学習するのか?それとも、幼児が真っ先に学習する分類であるために、もっとも頻繁に使われるのか?いずれにしても「分類」を認知してしまう性質を、人は生まれながらにもっていると言えます。
「分類」は物事を分けることです。「分別」もまた「分けて別れること」です。分別があることは良しとされ、無分別は社会から敬遠されます。物事を詳細に分類することで科学・技術は発展してきました。思考で扱う単位が細かくなればなるほど、論理的・科学的思考が精緻になります。こうした精緻な思考によって、人類は進歩してきたと言えるでしょう。
しかし分別があることが本当に良いことなのでしょうか?自分と他人を分け、自国と他国を分け、敵と味方を分け、勝ちと負けを分け。このような「分ける」ことは、日常の些細な喧嘩から世界規模の戦争まで生み出しています。また、「これはこうだ」と分類を決めつけてしまったがために、人間は様々なエラーを犯します。
仏教では「分別」はよろしくないことです。仏の悟りは空性、すなわちすべての物事がつながっていることを見抜くことです。したがって、これはこれ、あれはあれ、というように分けてしまう、すなわち物事同士のつながりを断ち切ってしまってはだめなのです。仏教では無分別が尊ばれます。
「無分別」を支援すること。それが今後の研究テーマです。
2009年5月19日火曜日
無分別のススメ
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