最近シャンパンにはまっている友人がこんな話をしていました。数年前に家族でパリを旅行した時、アラン・デュカスという有名なフレンチ・シェフの弟子が経営しているフレンチ・レストランで食事をしたのが、シャンパンとの出会いだ、というのです。
料理はリヨン風で、言ってみればエビのすり身団子なのだそうですが、これまで味わったことのない美味しさだったそうです。しかし、注文したシャンパンを、すり身団子の後に口に含むと、先ほどのすり身団子とは似ても似つかぬ、さらに奥深い味になったのだそうです。友人はウェイターにそのシャンパンの銘柄を訊いたそうですが、教えてもらえなかったそうです。帰国後も、あのシャンパンの味が忘れられず、いろいろ調べ回ったら、すっかりシャンパン通になっていた、ということのようです。
調べて分かったことは、その店にシャンパンを提供しているメーカーはA社とB社のいずれからしい、ということだったそうです。凝り性の友人はさらに調べ、いろいろなシャンパンを飲み比べ、B社ではないかと推測したそうです。そして、ある日、友人は、偶然にも、日本通のB社の社長と札幌で会う機会を得たのだそうです。その際、その社長がニヤニヤしてはぐらかすようなことを言ったから、間違いない、と誇らしげに友人は私に話してくれました。そして、確かに一流の店は決して安くはないが、本物に触れることは大事な出会いを生むのだ、と締めくくりました。
このエピソードにおいて、この友人にとって「大事な出会い」とはなんだったのでしょう?このエピソードにどのような「意味」があるのでしょう?
多くの人に秘密にされている、「その店のシャンパンはB社のもの」という真実(?)に辿り着いたことでしょうか?確かにこのことは友人にとって意味のあることだったでしょう。しかし、この真実は、その店の人たちや、実際にその店にシャンパンを提供している会社の人たちが当然既に知っていることです。言ってみれば、多くの入試問題のように「解答」のある問題を解いた(解いたと思っている)に過ぎません。
ではその「解答」に至るまでの「プロセス」に意味があったのでしょうか?確かに友人はシャンパンの銘柄や産地などに詳しくなりました。しかし、シャンパンは、それを引き立て、相乗効果を生む料理があって初めて深い味をもつものなわけです。したがって、シャンパンに関する友人の多くの情報は「蘊蓄」以上のものではないでしょう。
結局のところ、この友人のエピソードにおいて本当に意味のあることは、その「結果」や「プロセス」ではなく、美味しさを相互に引き立て合うことのできる「優れた料理」と「優れたシャンパン」とが出会うことによって、「1+1」が2よりもはるかに大きくなるという、友人の「気づき」ではないかと思うのです。料理とシャンパンを別々に口に含んでも、それらを同時に口に含んだ時のような「美味しさ」は生まれません。二つの物事が合わさった全体として「美味しさ」という「意味」をもつのであって、個々を切り離した「断片」を組み合わせても「意味」は失われるということでしょう。
これはまさに「ゲシュタルト」です。音と音の組み合わせの全体が「優れた音楽」を生み、色と色の組み合わせの全体が「優れた絵画」を生み、空間と空間の組み合わせの全体が「優れた建築」を生むように、「優れた料理」や「優れたシャンパン」もゲシュタルト的な関係をもつのでしょう。では、こうしたゲシュタルトの認識は、私たちのどのような「意識」の働きなのでしょうか?
2009年5月19日火曜日
シャンパンと思いこみ
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